糖尿病に効く飲み物を考えながらエクスポージャーしました。

イメージしてみよう。エクスポージャーだ。俺は安心して、自由に、できるならば適当に人とかかわるぞ。イッツァゲーム。もちろんゲームじゃないところも世界にはある。ゲームみたいに世界にかかわる自由に適当に、という問題と、安心して人とかかわるという問題は別物だ。とりあえず安心して人とかかわるということについてエクスポージャーしよう。
例えば、バイトを始めたとしよう。見られちゃうね、人に。バイトの先輩、すでに働いている人、年下の先輩。イケイケな女の子や男、俺は見た目ダサいよね。見下されちゃうかなって不安になっちゃう。俺は見下されるよ。でも、それでもいいような気がしてくるよね。俺の声は小さくなってしまうかもしれない。そしていつもの自分が発揮できないと思ってしまう。もちろん、いつもの自分っていうけど、いつもの自分こそ声が小さいのに。本当は自分はもっとはきはき明るくて面白いやつだって思いたいんだね。そう思って、みんなに好かれ、尊敬されたいんだね。何を求めているの?


受け入れようよ。俺はそこまで明るくない。いや、確かに俺は落ち込んだこともないし、案外ふさげていたりする。でも、常におびえていることも事実だ。怯えてるから、暗くふさぎこんだ感じになる。いつも怯えて、緊張して、不安になって、どうすればいいんだろうと悩み巡っている主体こそ、本当の俺なんだ。それがバレちゃうのはいやだと思うね。でも、それをバレちゃうのが嫌だと思っていることこそが、不安や緊張、怯えを生んでいるんだよ。自分の暗い部分とか、弱くてビビりな部分、この際かかわる人に知ってもらうのはどうだ?結構それを知っている人はいるよ。むしろみんな知っているかもしれない。俺が、相手に対してそのことを知っているかどうか、許可を出しているか、出していないかの問題なんだ。例えば古い友達とか、自分が騒ぎ暴れてたときの友達に、今の怯えがち、不安がち、緊張しがち、悩みがちの自分を知られたくない。彼らのそれを知ることは許可できないと思っている。でも、例えば大学生になってから出会った先輩には、それを知ることを許可している。だからか、場合によってはかわいがってもらえることもあるんだ。勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。ビビりながらでも頑張っている自分というのを、対等とそれ以下の力関係の人に見られたくないって意地を張っているね。その意地を緩めるんだ。知られてもいいんだ。知られないと、いや、知られないように頑張って努力している姿こそこっけいだし、非合理的だ。自分の弱さをしっかりと知ってもらってこそ、相手と自分の心の距離は縮まるんだ。でも、人とシリアスな話題をしたがるのは止そう。特に個人的な話。自分だけの利益にかかわる話を人にするのは、あまり良くない。でも考えてみればそもそもそんな事柄俺は持っていないかもしれないが。
怯えがち、不安がち、緊張しがち、悩みがちな自分を知られてもいいよ。どうぞ、笑うなら笑って、受け入れるなら受け入れて、受け流すなら受け流して、見てみぬふりなら見て見ぬふり、人に言いふらすのもよいでしょう。同情してくれるなら、ありがとう。糖尿病 飲み物も飲めそうだ。
人を信じよう。愛着を持とうぜ。そう、イニシアティブだっけ、イニシアティブを自ら取るんだ。自分から相手を肯定的に受け入れる。いい店だ。いい店員が働いている。俺と仲良くしないか。俺と話さないか。俺はこんな感じだ。お、ばかにしたな?お前だってこうじゃんか笑みたいな感じでさ。こ、こんにちは。こんな店で社員やってるのか、そのレベルの人間か。こいつも学生なら勉強しろよずっとバイトばっかやってないで。お前は俺よりいい大学いっているな、まあその程度の評価は今のところしておいてやろう。え?なんかこの人愛想悪いって言うか冷たい?俺にだけ?俺歓迎されてない?どう振舞うのが一番いいかな。この前の進んだ研究によると、こうすべきだから・・・。こんなことを考えているのが、実際、いつもの俺だ。つまり、人との関係性を自分のなかで完結させようとしている。これこそが回避なのだろう。人を「見る」だけだ。見ているだけで、人を判断したり評価したりするだけで、人への関心がストップする。自分の意識のなかで終わり。お互いに共感性を持つ機会を作らないままで、相手だけに自分を好くように強制させる。実際しているのは願うだけだが。もし期待に沿わなければ、心が傷つく。もっと言い振舞い方があったはずだ。もっと言い振舞い方をしておけば、魅力が十分に評価されたということで、俺も晴れてあの人たちに好かれたフレンドの一人になれたのに。そんな思考になってしまう。俺はもっと人にlikeをすべきだ。いいね、と肯定的に接する。根拠は特にいらない。むしろあってはいけない。根拠ないしに相手を肯定するんだ。もし根拠を元に人をlikeしてしまったら、それは人を判断したことになる。人を覗きみることは別にいい。その次の発展があれば。発展と言うのは、しっかりと、相手と共感性を持つためのイニシアティブをとること。自分から人に話しかけて、話しかけて、話しかけて。愛着を持って信頼して。相手は本気で自分のことを低く評価しない、と言う風に信じるんだ。低く評価されるのが怖いからな、信じてないと安心して関われない。低く評価されるのが怖いっていうのは、自分が、自分自身で、自分のレベルが低いことを許していないからと言う部分は確かにある。俺は、おれ自身がつまらないことを許していない。おれ自身のコミュニケーション能力が低いことを許さない。女性を魅力できないことを許さない。俺が、できない俺を許さないから、人から「あいつはできない」って思われてるのが許せないのだ。その逆もあるけれど。一度試しに思ってみるか。俺はコミュ力低くてもいいです!女の子に好かれなくてもいいです!まじで!一生こんな感じで!しょぼい感じだけど、別にいいじゃん、それだからといって俺の人生の価値が下がるわけでもなんでもないよ。ただコミュ症でモテないだけだし。生きてればやることほかにもいっぱいあるし。冗談言えないまじめつまらないくんだけど、それでもオッケー。むしろそれがいい。まじめつまらないくんを生きていくぜ!って感じ。そう思うことができるなら、友達のように遊んでいたやつに、ぶっちゃけあいつつまらないよな、あいつからリプが来てもうざいだけだし、呑みになんて行かないよ?盛り上がらないじゃん笑って言われても平気でいられるかもしれない。なぜなら、俺は盛り上がらない人でもいいと思ってるんだから。盛り上がらない人でも俺の人生の価値、俺と言う生の価値は変わらないんだからって思っていれば、平気かもしれない。てか、たぶん平気だ。能力と言うのはすべて相対評価だ。だから、面白くない自分が許せないというのは、比較的に、誰かと比べたときに面白くないと思われちゃうのは嫌だ!と思っているから面白くない自分が許せないんだ。基本的に自分が許せないというのは、他者からの評価の問題だ。罪悪感によって自分が許せない、例えば、動物を殺すことは許せないとか、そういうことは評価の問題じゃないけれども、自分が何者かと言う問題、自分が頭いいか悪いかとか、金持ちか貧乏か、というのは他者による評価に敏感になるから、許せなくなる問題なんだ。だから、自分を許すことが、低く評価されても気にならなくて、怖がらなくても良くなるための道かもしれない。例えば女性を魅力する能力が低いからといって、女性を魅力しようとすることをあきらめる必要は無いんだ。俺は、俺がいるだけでその場の空気がつまらなくなるやつだったとしても、それを自分で許したとしても、盛り上げようという努力はしてもいいんだ。

ポイントを整理しよう。安心して人と関わる。人を信頼するんだ。信頼には何もいらない。また、無根拠に人を肯定する。いいね、いいね、と。また、しょぼい自分を許す。具体的にもっと許すという作業を進めよう。しょぼい自分を自分が許せば、人に指摘されても敏感にならずにすむだろう。というか、しょぼい自分を許せないから堅い人間だしな。まあ、固い人間であることが許せないから、しょぼい自分を許すっていう逆の関係にもなっているんだけれども。いやそんなことないか。まあ、何者にかなりたくてもなれない自分を許す。その上で、人に愛着をもって、共感して関われるように話しかける。自分から関わっていく!!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です